イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家…
古代ローマ帝国が、長らくキリスト教を弾圧した主な理由は二つあります。
第一は、ローマ人がもともと「多神教」の信者だったことです。
キリスト教の誕生以前から、ローマにはローマ神話が根づいていました。
この神話には、多くの神々が登場し、ローマ人は彼らを同時にあがめることを、当たり前のこととしていたのです。
しかし、キリスト教はヤハウェ神の他に神はいないとする、「一神教」です。
キリスト教徒によれば、ローマの神々はすべてニセモノということになるのです。
その主張が、ローマ人の反感を招いたことが一つ目の理由でした。
第二の理由は、建国以来ローマ帝国には、皇帝を現人神として神聖視する風潮があったことです。
これを「皇帝礼賛」というのですが、ちょうどキリスト教が誕生したころから、皇帝たちはこれを民衆に強制し、権力の強化をはかるようになっていました。
ヤハウェしか神と認めないキリスト教が、それに従うはずはありません…
その反抗的な態度も、皇帝たちには腹立たしかったのでしょう。
しかしローマ帝国は、313年の「ミラノ勅令」を機に、弾圧から庇護へと、キリスト教に対する態度を180度転換しました。
この転換をうながした背景にも、やはり二つの理由が挙げられます。
第一は、積年の弾圧にもかかわらず、キリスト教徒が帝国領内で増加し続けて、無視できない勢力となったことです。
弾圧を続ければ、皇帝の求心力は損なわれます…
弾圧はすでに、デメリットの方が大きくなっていたのです。
第二は、「四分統治」時代の到来でした。
皇帝が4人並立するというこの体制は、本来は広大な版図を手分けして治め、帝国の分裂を防ぐために設けられたのです。
しかしその四者は反目し、返って分裂の危機を高めました。
その四者の一人が、ミラノ勅令を発布したコンスタンティヌス帝です。
彼はライバルを淘汰するため、増大したキリスト教徒を味方につけようとしたのです。
その甲斐あって、やがてコンスタンティヌスは唯一の皇帝として、帝国の統一に成功…
以後もキリスト教徒の支持を、政治に利用しました。
381年にキリスト教がローマの国教となったのは、その延長線上のことであるのです。
そういった意味では、当時の政治とのつながりを抜きに、キリスト教の発展はなかったとも言えるでしょう。
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