仏教の宗旨の一つである日蓮宗について、知っているけど詳しくは知らない・・・・という方もいらっしゃるのではないでしょうか。
この機会に日蓮宗の歴史や本尊について詳しく勉強してみませんか?
日蓮宗とは?…その歴史や本尊について
仏教の宗旨の一つである日蓮宗は、日蓮上人を宗祖とし、法華経を所依の経典とする伝統仏教教団です。
日蓮系には多くの流派・分派がありますが、それは日蓮が六人の弟子(六老僧。日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の六高弟)を指名して後事を託したことに端を発しています。
日蓮は貞応元(1222)年、現在の千葉県安房小湊で誕生します。
郷里の清澄山の山寺・清澄寺に12歳で入山し、16歳で出家しました。
19歳の時、参籠して虚空蔵菩薩に祈願し、満願の日の霊夢が機縁となって勉学の目標(仏教諸宗の研鑽)が定まり、山を下って当初鎌倉の光明寺に学び、のちに比叡山・奈良諸大寺·高野山などにおいて各宗の宗義を究め、「法華経」こそ諸経の王、釈尊の正意に適う経典であるとの信念を確立しました。
建長五(1253)年、三十二歳で故郷の清澄寺に帰山した日蓮は、四月二十八日、同山旭の森において海上を望んで立ち、朝日に向かって題目を十回唱えて立教の宣言を行ないました。
この時が開宗の日とされています。
その後、日蓮は法華経の広宣流布(布教活動)を通して、仏教界については各宗批判(念仏無間※地獄のこと 禅天魔、真言亡国律国賊)を強めて覚醒を促し、為政者に対して、諫言を行ないますが、その厳しさのあまり数々の迫害に遭いました。
主な迫害の事実を列挙しただけでも、文応元(1260)年、日蓮三十九歳の時、松葉が谷草庵焼討、翌弘長元(1261)年、伊豆に配流、文永元(1271)年、小松原での襲撃(額に負傷※刀傷)、文永八(1271)年、龍の口(片瀬の刑場)に連行されての処刑未遂と佐渡への配流などの苦難を体験しています。
文永十一(1274)年、五十三歳で赦免となった日蓮は、鎌倉で幕府に対する三度目の諫暁(為政者への諫言)を行ない、のち身延山に移って草庵を建て、弟子の育成と著述の日々を送りました。
日蓮は佐渡流罪の三年の間に、「開目抄二観心本尊抄」を著わして、法華経行者としての証と末法の世を救済する本尊を明らかにしています。
弘安五(1282)年、九年間身延山を出ることのなかった日蓮は、療養のため常陸国に向かい、途中池上において生涯を閉じました。
享年61歳でした。
日蓮の滅後、前述したように高弟を中心にして布教が展開され、各門流(各派)が形成されました。
また京都の町衆を中心とした法華宗の隆盛、為政者(秀吉)の要請に従う派(受派)と従わない派(不受不施派)との内部対立などもあり、近世になってようやく身延門流(日蓮宗)が日蓮系教団の中心に位置するようになってきたのです。
本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏(表現形体・大曼荼羅など)、所依の経典は法華三部経です。
主な流派としては、日蓮宗、日蓮正宗、顕本法華宗、法華宗(本門流、陣門流、真門流)、本門仏立宗、本門法華宗などがあり、寺院数は約六千ヵ寺、徒数\約五百三十七万人とされています。
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