「無一物中無尽蔵」…
「むいちもつちゅうむじんぞう」と読みます。
これは「無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り」という蘇東坡の詩の一節から引用されたものです。
この「無一物中無尽蔵」の意味を知ると、すべては関わり合っており、世界のありがたさや美しさに改めて気づくことができるかもしれません。
蘇東坡(そとうば)…中国北宋代の政治家、詩人、書家で蘇軾(そしょく)と呼ばれた人物のこと。
東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれるようになった。
古文の唐宋八大家の一人。
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「無一物中無尽蔵」の意味を知って世の中を見つめてみる
六祖慧能(えのう)のことばとされる禅語に「本来無一物」があります。
ちなみに「六祖」とは中国禅初祖の達磨大師から六代目の祖師の意味です。
「本来無一物」はすべての事物は本来「空」なのだから、固定化・実体化したものは何ひとつなく、一瞬一瞬にうつろっていくとすれば執着すべきものは何もないということを意味します。
その「空」と「無」の状態において、世界のあらゆるものがかかわっており、存在しているというのが仏教の考え方です。
何もなしと思っても、そこにはなんでもある…
万物がその無にかかわっていて支え合っているのです。
蘇東坡は、「ここには、あたかも何もないかのようだが、花があり、月があり、楼台(高い建物)がある。それで十分満たされているではないか」と詠じています。
我執我欲を捨て、心を虚しくすれば、そこにありとあらゆる豊かさが満ちてくるもの。道元が「放てば手に充てり」と喝破した境地なのです。
南宋禅、六祖慧能も「本来無一物。いずれの処にか塵埃を惹かん」と悟りの偈を遺しました。
禅の空の境地とは、菩提もなく煩悩もなく、あまつさえ身も心もない、”無一物”のものであるはず。
しかればなにゆえ、何もないところに塵や埃が積もろうか…、と説くのです。
そして空虚な無の世界に、満ち溢れる生命力を、日本の侘び茶人は発見するのです。
見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕ぐれ
(藤原定家 新古今集)
武野紹鴎は、この歌の中に”侘び茶の湯の心”あり、としました。
それに対し、千利休は、
花をのみ待つらん人に山ざとの 雪間の草の春を見せばや
(藤原家隆 六百番歌合)
の歌に、侘びの根本精神があるとして、手元に書付け愛唱したと伝えます。
墨絵の中におぼろに見える、花、月、楼台。
固い根雪を割って萌え出づる、鮮やかな緑の息吹き。
人は目を凝らし、見ようとする限り、どこにでも豊かさは見つかるもの。
なぜならそれは、すべての人の心の内にあるものだからです。
すべては深いかかわりあいを持ってそこにあります。
人もこの世も「本来無一物」…
心に一物もなく、妄想も何もかも捨てきったところに、世界の美しさやありがたさがはじめてくっきりと見えてきます。
こころを空にして、無一物であることを楽しんでみましょう。
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