時宗(じしゅう)という宗派をご存知でしょうか。
この機会に時宗(じしゅう)について詳しく学んでみませんか?
時宗とは?…時宗の開祖「一遍」の踊り念仏
時宗(じしゅう)は鎌倉時代の中期に、一遍上人(智真)が開宗した浄土教の一派です。
また遊行宗 (ゆぎょうしゅう) とも言われています。
開祖は一遍。
神奈川県藤沢市の清浄光寺 (遊行寺) を総本山とします。
時宗という宗名は、一説に「阿弥陀経」の「臨命終時」という経文に由来し、平生を臨終と心得て念仏するという宗意を表わしているとされています。
この宗派の特色は、浄土三部経中特に「阿弥陀経」をおもな所依の経典とするほか「六時礼賛」「法華経」「華厳経」などの念仏を説いている経典をも所依の経典とすること、開祖にならって阿弥陀念仏を勧進するために全国を遊行すること、の2点にあります。
一遍上人の滅後、第2世他阿が宗規を完成し、第5世安国は清浄光寺を本山と定め、第7世託何は大いに宗義を顕揚しました。
第12世尊観法親王を中興の祖とします。
現在7派があるが、一宗のもとに統一されています。
各地を遊行(行脚)して「念仏」の札を配って歩く独自の布教方法と、「踊り念仏」によって知られています。
一遍は延応元(1239)年、伊予国(現·愛媛県)道後の豪族 河野道広の次男として生まれました。
10歳の時、母を失うと父の勧めで出家し、13歳で九州大宰府(福岡県)の浄土宗西山派の聖達上人について浄土教を真摯に学ぶことになります。
その後父の死によって一時還俗しましたが、再び念仏行に専念し、信濃の善光寺に参籠して、二河白道の図(浄土に往生を願え夫が信心を志してから往生するままでのプロセスを比喩によって教示した図。衆生の貪欲と瞋恚(しんい)を水と火の二つの河にたとえ、その中間に白い道を配したことから二河白道と名づけられた)に深く心を打たれ、それを書写して地元にもどり、窪寺においてこの図を掲げて称名念仏の修行を3年続けました。
この時、念仏の信仰を確立し、その後、財産、家族、故郷の一切を捨ててこの念仏の境地を伝えるため諸国を遊行し、一所不住の生活を送りました。
このため一遍は、「捨聖」「遊行上人」と呼ばれるようになります。
しかし、この時の一遍の胸中には、念仏を説いても相手に拒否されたらどうするかとの一抹の不安が残っていたため、神仏融合の風潮に習い、各地で神社仏閣を巡拝して祈願を怠りませんでした。
文永十一(1274)年、熊野権現(紀伊・熊野神社)に百日間参籠した時、一遍は熊野権現から「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上上妙好華」という神託を直授されました。
つまり、一遍が念仏を勧めることは、阿弥陀仏によってすでに救済されていることを衆生に告げることにほかならない、したがって信・不信を問わず、一心に念仏を広めればよい、との確信が与えられたのです。
この時を開宗の年とし、この神託によって以後一遍と称するようになりました。
その後一遍は、絶対不二の六字の名号(南無阿弥陀仏)を徹底させるため、「南無阿弥陀仏熾雉」と書いた算(名号札)を配って(これを賦算という)、多くの人々と結縁を結ぶという独自の布教方法を編みだしました。
この算に記載された「六十万人」とは、60万人の人々という意味ではなく、熊野権現の神託にある四句の偈頌の頭文字を綴り合わせたものです。
各地で人々はこの名号札を受け、法悦に浸る「踊り念仏」の輪を広げていきました。
一遍は正応二(1289)年、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」との辞世の句を残して、51歳で他界します。
遊行の伝統は今日も継承され、江戸期には12派が分立しましたが、現在は清浄光寺(藤沢市・遊行寺ともいう)が総本山です。
本尊は六字名号で、経典は「浄土三部経(阿弥陀経が正所依)」となり、信者数は約58000人となっています。
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