「宗教」という言葉を聞くと、違和感や嫌悪感を感じる人も少なくないでしょう。
特に日本ではあまり馴染みがなく、また特別な思想を持った集団というイメージが強いからです。
また、宗教を通して嫌な経験をした、という方も中にはいらっしゃるかもしれません。
しかし世界を見渡すと、まさに宗教で溢れかえっています…
むしろ無宗教という人の方が少ないのではないでしょうか。
世界では宗教によって様々な問題も多く発生しています。
無宗教の方で宗教に関してあまり関心を抱いたことがない、という方はここで少し宗教に触れてみませんか?
ここでは、そんな「宗教を理解するための2つの方法」に関して、少し考えてみましょう。
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宗教を理解するための2つの方法
未だかつて『宗教』という用語について、関心をもつ者すべてを納得させるような十分な定義を提出した者は誰もいない…
これはジョゼフ·M·キタガワの言葉です。
この指摘の通り、宗教の定義についての論及がさまざまな角度からなされているため、逆にそれが、正解を導き出すのをいっそう困難にしているというのが現状なのです。
「宗教とは何か?」…
という質問の答えには、靴の上から足の裏を掻くようなまだるっこさや、一面の真実だけしか押さえられていないという不十分さが常に伴います。
このような今日の状態を、宗教学者・増谷文雄氏は次のようなたとえによって説明しています。
私が平和という言葉を前にしてまず思い浮べているのは、かつて一人の古典ギリシャの人物が口にした言葉である。
彼は何といったか。
『平和ということについて人に問われない前は私はそれが何であるかを知っていた。しかし、あらためて人に問われてみると私はそのことについてなにも知らないのである』という不思議な言葉である。
私が今『平和』の問題を前にして、まず思い浮べたのは、この言葉である。ふと気がついてみると、私たちの世界にはこのような言葉がたくさんある。
たとえば、『幸福』という言葉もまた、そのような言葉であると私は常々考えている。(中略)
つまり、平和という言葉は誰でもよく知っているが、では、それを本当に知っているかというと、だれも頭をかしげなければならない。
的確に知っていない。平和とは何かとあらためて問われると、私はそのことについて何も知らないのである。
その言葉の真の意味する実体を指摘することは、誠に困難なのである
この「平和」という言葉を「宗教」に置き換えると、「宗教」という言葉が置かれている立場が明らかになってくると思います。
つまり、「宗教」という言葉自身は大変ポピュラーで、よく知られているにもかかわらず、その意味内容が曖昧模糊とした霞の彼方に存在する…ということです。
では、「宗教」を理解する道筋を見いだす手立てはないのでしょうか。
もちろん、それはあります。
まずその一つは、理論的、学問的に理解する方法です。
もう1つの方法は、自身で納得する答えを見い出すやり方です。
俗に、「饅頭の餡の甘さを教えるには、面倒な説明をするよりも食べさせるのが早道」といわれるように、自分が信じてみて、その信心を通して理解するわけです。
これが最も実感の伴う方法なのですが、それに抵抗を覚えるのであれば第一の方法、つまり宗教の世界がいかに構成され、どう動いているかを頭で理解していく方法がよいでしょう。
そしてそれは、本書を読み進めていく過程で実践されるはずです。
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