ローマ教皇庁のあるバチカン市国は、世界でもっとも小さな独立国といわれています。
その国土面積は、およそ0.44平方キロメートル(東京にある日比谷公園の約3倍)、人口もわずか819人(2014年統計)ほどです。
ちなみに公用語はラテン語です。
そもそもバチカンとは、古代のローマ市の近郊でイエスの弟子ペトロが葬られた丘の地名でした。
のちにペトロは初代の教皇とされ、4世紀にはペトロの墓の上に聖ピエトロ聖堂が建設されて、教皇庁の本拠地となったのです。
その後、西欧では西ローマ帝国が崩壊して、ゲルマン人の諸部族による抗争やイスラム教徒の侵攻が続きました。
教皇庁にとっては受難の時代です。
こうした中、756年にカロリング朝フランク王国を興したピピン王が、教皇庁にイタリアのラヴェンナ地方などの領土を寄進します。
ピピン王は、それまで西欧を支配していたメロヴィング王朝を倒して王座につきましたが、このとき教皇庁の宗教的な権威を後ろ盾にしたのです。
一方、教皇庁は東ローマ帝国の東方正教会と対立していたので、西欧を再統一したフランク王国による保護を求めていました。
つまり、ピピン王による領土の寄進は、フランク王国の武力・権力と、教皇庁の宗教的な権威が手を握ったことの象徴といえるのです。
ピピン王の寄進は、教皇が領主として領土を治める教皇領のはじまりとなりました。
以降、西欧の王朝に対する教皇の権威は拡大し、教皇領は西欧のあちこちの地域に広がり、教皇庁には多くの税収が入るようになります。
ところが、そうなると、次第に本来の教会の清貧の精神を忘れ、富や権力をむさぼるような聖職者も少なからず現れました。
このような教会のあり方への反発もあり、十字軍の遠征が失敗に終わった時期から、次第に教皇庁の権威は落ちていきます…
16世紀に宗教改革の時代が到来すると、当時の西欧を治めた神聖ローマ帝国や世俗の諸侯がたびたび教皇領に侵攻するようになり、教皇領は縮小していきました。
最終的には、1870年にイタリアが統一されると、ローマ一帯に残った教皇領の大部分は王室に没収されてしまったのです。
しかし、20世紀に入ってから、バチカン市国の独立性が認められることになります。
ここで登場するのが少々意外な人物…
イタリアの独裁者ムッソリーニです。
ムッソリーニのファシスト党は、1922年にローマ進軍というクーデターで政権を手に入れましたが、当時のイタリア王国の保守的な官僚や政治家には、彼らに反発する勢力もいました。
また、ファシスト党は、ソ連の共産主義を敵視していましたが、共産主義は無神論を唱えています。
そこで、ムッソリーニとしては教皇庁の権威を味方につける方が都合がよかったのです。
こうして、1929年にムッソリーニ政権と教皇庁はラテラノ条約を結び、イタリア政府はバチカン市国を独立した主権国家として承認しました。
このため、カトリック教会では、共産主義やユダヤ人への反発から、ファシズムに協力的な聖職者も少なくなかったのです。
しかし、第二次世界大戦が進展するにつれ、ファシズム政権に抵抗する良心的な聖職者も増えていきました。
こうした歴史への反省もあってか、戦後の1960年代に入ると、バチカンは大幅に「民主化」されます。
1962~65年の第二バチカン公会議では、プロテスタント教会との和解、平和主義、性別や人種の平等が唱えられました。
現在のバチカン市国政府は、国家元首であるローマ教皇のもと、国務省ほか12の省庁と、聖職者による評議会を持っています。
軍隊はありませんが、中世期からスイス人のカトリック教徒による衛兵隊がおかれ、教皇と聖堂を警護しています。
また、対外的には、日本を含めて178もの国と外交関係を結び、国連などの国際機関に常駐のオブザーバーを派遣しています。
ちなみに、バチカン市国には税金はありません。
世界各地の敬虔なカトリック信徒たちによる寄進のほか、バチカン市国が発行している切手やコインの売上などによって、国家の運営は支えられていると言われています。
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