菅原道真と言えば、平安時代の貴族であり、学者や漢詩人、政治家として能力を発揮した人物です。
そして菅原道真と言えば、もう一つ「天神様(てんじんさま)」という呼び名があることでも知られています。
ただ、この「天神様」という呼び名…
なぜなぜ菅原道真はこう呼ばれるようになったのでしょうか?
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なぜ菅原道真は「天神様(てんじんさま)」と呼ばれるのか?
菅原道真(すがわらのみちざね)は、「学問の神様」として学業成就や合格祈願を求める人々の支持を集めています。
その一方で「天神様」とも呼ばれ、全国の天満宮や天神社に祀られています。
菅原氏は学者を輩出した一族で、道真も宇多天皇(うだてんのう)の信頼を得て、出世街道を駆け上りました。
そして、次の醍醐天皇(だいごてんのう)のときに右大臣に昇進します。
当時、右大臣は、左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)に次ぐ、朝廷ナンバー2の地位です。
ところが突然、罪を犯したとして九州の大宰府に左遷されてしまいます。
どのような罪で左遷されたかは定かではありませんが、左大臣だった藤原時平とはライバル関係で、時平の中傷によるものであるとも、道真を重用した宇多上皇と醍醐天皇の対立によるものであるともいわれています。
道真はほぼ軟禁状態で仏事と詩作に没頭し、左遷されてから11年後に病没し、大宰府に埋葬されました。
道真の左遷後、藤原時平は権力を独占しましたが、道真の死から六年後に39歳の若さで亡くなります。
さらに14年後、時平の娘を母とする醍醐天皇の皇太子が21歳で亡くなると、「菅公の霊魂宿忿(恨み)」の仕業との噂が流れるようになりました。
醍醐天皇は道真を元の右大臣に戻し、正二位を追贈(死後に位階を贈ること)するとともに、大宰府左遷の詔(みことのり)を破棄しました。
これは、公式に道真の祟りを認めたことに他なりません。
さらに、事件は続きます。
政務が行われていた宮中の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貫(ふじわらのきよつら)ら数名が命を落としました。
清貫は、大宰府で道真の監視役だった人物です。
このことから、道真は雷を操る「天神」とみなされるようになったのです。
そのため、朝廷は道真の怒りを鎮めようと京都の北野に北野天満宮を創建し、道真を天神様として祀るようになりました。
ここが天神信仰の発祥地となり、全国の天満宮の総本社として現在も崇敬されているのです。
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