曹洞宗という宗名についてご存知でしょうか。
今回は曹洞宗について、またお経「南無釈迦牟尼仏」とその歴史について詳しく学んでいきましょう。
曹洞宗とは?…お経「南無釈迦牟尼仏」とその歴史
“日本”曹洞宗は、鎌倉時代、道元禅師によって開宗されました。
ここで日本曹洞宗と「日本」をつけたのは、曹洞宗法統の真髄が道元を通して中国曹洞宗から受け継がれているからです。
曹洞宗という宗名は中国で命名されたものですが、同宗の法統を継承した二人の高僧の名にもとづくものと伝えられています。
道元は正治二(1200)年1月、京都で生まれました。
父は内大臣の久我通親、母は摂政・藤原基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)という名門の家庭でしたが、3歳の時に父を失い、8歳の時に母と死別するという悲運に遭い、13歳の時比叡山に入って出家を志します。
翌年、天台座主・公円に師事して得度し、仏法房道元の法名を与えられました。
その後、道元は仏法について大きな疑問を抱き、比叡山で解答が得られなかったため山を下りて三井寺で学び、さらに建仁寺で臨済宗の禅の修行に励みました。
貞応二(1223)年、24歳の時に中国へ渡り、天童山をはじめ諸山を遍歴して修行を重ねました。
それでも疑問が解けずにいたところ、天童山に着任した新住職・如浄禅師と出会い、真実の師に巡り会ったことを悟り、如浄の法統を継いで、28歳の年に帰国しました。
帰国した道元は、宇治に興聖寺を建てて、曹洞禅を伝えると共に「正法眼蔵」などを説きましたが、名声を博する一方で伝統仏教からの圧迫もあって、寛元元(1243)年、越前に移り住み大仏寺(現大本山・永平寺)を建立して弟子を育成し、終生この地を拠点にして禅の修行を続けることになります。
建長五(1253)年9月京都で療養中、54歳で不帰の人となりました。
その後の曹洞宗は、曹洞宗二大本山の一つ総持寺の開山、瑩山禅師が宗の発展の基礎を築き、現在一万四千七百ヵ寺、信徒数約百五十八万人を擁する仏教教団に発展しています。
曹洞宗の教えは、各自がそなえている仏心にもとづき、座禅の姿と心で日常生活を調え(即心是仏)、その心を保つため、ただひたすら座禅をする(只管打坐)ということにあります。
所依の経典としては、「修証義(道元著『正法眼蔵』の中からその大意を示した曹洞宗の根本聖典)」「般若心経」「観音経、如来寿量品(法華経)」などを用いています。
曹洞宗の本尊は釈尊ですから、礼拝をする時には「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。
また、信徒の家庭で祀る本尊としては、「一仏両祖のお絵像」(掛軸)を祀る定めがあります。
釈尊の絵像を中心にして右に開祖・道元禅師、左に第四代、瑩山禅師の絵像が描かれています。
曹洞宗の修行であり信仰の基本とされるものは座禅です。
したがって、家庭での座禅についても作法に従い行なうことを教えています。
曹洞宗の年中行事は、仏教の主要行事が中心となりますが、独自の行事としては両祖忌(道元・瑩山両師の命日。9月29日)、達磨忌(禅宗の祖・達磨大師の命日。10月5日)などがあります。
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