私たちはこれまで、役に立たない無駄な情報を学ぶことに膨大な時間を割いてきました。
ですから、
「どのように生きたらよいか」
「どのように自分を愛したらいいか」
「どのように他人とつきあうか」
「どのように自分の感情に触れ、自分が望み、必要としているものを認識するか」
といったことを知るための時間など、ほとんど残っていないはずです。
言い換えれば、私たちは自分の感情を抑え、本当の自分から逃れる方法を学ぶのに時間を費やしてきたので、自分の気持ちとか感情は「よそものの領域」になっていることが多いのです。
自分の意識を閉じこめ、感情を閉じこめ、自分でない自分になろうとして数年を過ごしたあとで、自分がまだ存在しているというのは奇跡に近いことです。
ですから、本当の自分を見つけだすためには、これまで学んできたことを忘れることも必要なのです。
自分の感情をうまく扱えるように訓練を受けた人など、ほとんどいません。
人は、文学、数学、ビジネス、料理などについては学ぶことがあります。
しかし、感情に関心をもつ人はほとんどいないようですし、また感情について教えることができる人もあまりいません。
私たちは感情とは危険なものであり、一歩間違えると爆発して、大変なトラブルを引き起こすものだと、たびたび感じることがあります。
つまるところ、感情は合理的なものでも論理的なものでもないと思いこんでいるのです。
安全なものこそ、論理的で合理的なものと、とらえているのです。
なんと悲しいことでしょう。
そんなに感情が悪いものならば、なぜ神様はそんなものを私たちに与えたのでしょうか?
感情はそれほど悪いものだとは思いません。
感情があるからこそ、自分がどんな人間かがわかるからです。
感情があるからこそ、危険を感じたり、誰かがウソをついているときに察知できたりするのです。
感情があるからこそ、幸せや愛情、孤独や恐怖が体験できるのです。
感情があるからこそ、今のままでいいのか、それとも何かした方がいいのかがわかるのです。
自分の感情を避けることは、自分自身から逃げることにほかなりません。
「気づくこと」は、生きていくためにもっとも必要な技術のひとつです。
それは自分で訓練することができます。
わたしたちは自分が疲れているとき、あるいはひとりになりたいとき、それに気づく必要があります。
また、自分が何を感じていて、それをどうしたいと思っているのかにも気づく必要があります。
自分が気づいたことは、あとで戻ってくるための「標識」になります。
この「標識」によって、自分が学んだことを覚えておくことができるのです。
そのときは人生でそれほど大切な経験だとは思えないことでも、のちにそれが、まさに重要な経験であったことがわかることがあるはずです。
もし、私たちがそれに気づき、「標識」を立てておけば、あとで考える時間がなくてただ行動するしかないときに、そこに戻ってこられるというわけです。
「知識」というものは、結局、自分が気づいたことを糸を通してつなげたようなものなのです。
あなたの道を歩く人は、あなた以外にはいません。
でも、同じような道を歩んだ人がいるかもしれません。
もし、わたしたち一人ひとりが自分の歩んだ道に十分気がつけば、気づいたことを分かちあうことができるのです。
論理的だと思えなくてもいいのです。合理的だと思えなくてもいいのです。
とにかく、自分は本当はどう感じているのか、それに気づくことです。
そうすれば、色々なことがわかってくるはずです。
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