浄土宗(じょうどしゅう)は、日本の仏教のひとつです。
今回は浄土宗やその歴史についてご紹介しましょう。
浄土宗とはどんな宗教なの?
浄土宗は、法然上人を宗祖とする鎌倉時代に開かれた浄土信仰の教えです。
法然は、己の確信した阿弥陀仏の救済を説く宗旨を「浄土門、他力、易行道」として強調し、在来の仏教を「聖道門・自力・難行道」として退け、日本仏教を「他力宗」と「自力宗」に二分する思想的源流を構築しました。
法然は長承二(1133年)、美作国久米(現・岡山県久米郡)の武士の長男に生まれました。
幼名を勢至丸といいます。
九歳の時、父の遺言に従い仏門に入り、天勞聡明さが認められて13歳で比叡山で学ぶ機会を得、15歳で授戒得度(出家)しました。
比叡山では当代一流の学僧といわれた源光、皇円、叡空に師事し、叡空から11人の師の名に因んで「源空」と名づけられ、法然房源空と呼ばれて「智慧第一」と謳われるようになりました。
しかし、なかなか納得がいく究極の境地に達することが叶わないため、「一切経(仏教経典の集大成)」をひもとき看経(読経)三昧の日夜を過ごしました。
そして日本天台宗の僧・恵心僧都源信著「往生要集」、中国浄土教の大成者、善導著「観無量寿経疏(観無量寿経の注釈)」によって確信に至り、承安五(1175)年、43歳で比叡山を下り、その後東山吉水(現総本山・知恩院の境域)に庵を構えて日本浄土宗を開宗します。
そして無量寿経に説かれた阿弥陀仏の本願を信じて、一心に阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を唱えることにより、極楽浄土に往生できる、との教えを説き広めました。
この念仏の教えはまたたく間に広まり、京都·奈良の在来の仏教を刺激して比叡山から法論(大原問答)を挑まれましたが、叡山や南都仏教者の意に反して法然が一躍注目を浴ぴる結果となりました。
その一方で弟子の不行跡や叡山、興福寺の反発などがあって、法然は七十五歳の老齢で四国配流に処せられました。
4年後に京に戻るとその翌年、念仏の肝要を述べた「一枚起請文」を弟子に与えて80歳の生涯を終えました。
浄土宗の要諦とされるこの「一枚起請文」には、「ただ一向に念仏すべし」との「専修念仏」が説かれ、念仏する心構えについては、三心(至誠心、深心、回向発願心)、四修(恭敬修、無余修、無間修、長時修)を説いています。
法然の没後、門下の高弟たちによっていくつもの流派が形成されましたが、現存する派で弁長の鎮西派(九州を起点として京都に進出)が知恩院を総本山として浄土宗の主流となり、証空の西山派が西山浄土宗(総本山・京都光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(京都禅林寺、通称・永観堂)、浄土宗西山深草派(京都誓願寺)の各派を形成しています。
本尊・阿弥陀仏…
弥陀三尊としては、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩を安置。
祖師としては、法然・善導の両師を奉戴。
主要経典「浄土三部経(「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」)…
寺院数・約8200ヶ寺で信徒数は約650万人だと言われています。
この記事へのコメントはありません。