目次
仏教(ぶっきょう)…
キリスト教やイスラム教と並んで、世界的にも信仰されている宗教の一つです。
特に日本だけでなく、カンボジアやタイ、ブータンなどのアジア圏では大多数の人が仏教徒とされています。
そこで、ここでは仏教の開祖は誰?…
仏教の誕生と背景について学んでいきましょう。
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仏教の誕生と背景
仏教は、紀元前6、5世紀頃、釈尊(釈迦牟尼、お釈迦さま)によって説かれました。
この釈尊の時代は、多くの自由思想家が輩出した時期でもありました。
その理由を当時の社会背景と合わせて考えてみましょう。
それまでのインドの伝統的思想および宗教的権威は、ヒンドゥー・クシュ山脈を越えてインドに移住してきたアーリア人によって守られていました。
紀元前1200年頃、西トルキスタンからインドに移住したアーリア人は、神々への讃歌の書「リグ・ヴェーダ」を生み、その神学的根拠づけによって、カースト制度など、今日に通ずる社会規範や生活信条を構築していきました。
その後、このヴェーダ思想を継承し発展させる文献が集成され、紀元前1000年頃には、祭祀の書「ブラーフマナ(梵書)」が成立…
同800年頃に智恵の書「古ウパニシャッド(奥儀書)」が成立しました。
これらの思想的背景にもとづいて構築されたアーリア人社会も、紀元前6世紀頃にはガンジス河とジャムナ河流域の広大な地域に進出することで、先住民との間に共同社会が醸しだされ、ヴェーダ聖典の権威が揺らぎはじめました。
釈尊をはじめとする自由思想家が誕生したのは、まさにそんな時代背景があった時だったのです。
この時代の代表的自由思想家を、仏典では「六師外道(六人の代表的思想家)」と呼んでいます。
彼らの思想的特色について、仏教学者・金岡秀友は次のように総括しています。
1:従来の思想および思想家の権威を破壊するという、ネガティヴな方向でもっぱら力を揮った。
2:その数は極めて多く、一種の百家争鳴であった。
3:彼らは階級的,思想的にいかなる拘束も受けなかった。したがって、四姓(カースト)のいずれの階級からも出自が見られる。思想的にもまったく自由で、時には自己すら否定し、思想すらも否定した。
4:このため、彼らの思想は多く体系化せられるに至らず、この結果、後継者をもって、その体系が後世に伝えられることがなかった。
5:したがって、彼らの思想は彼らの反対者であり勝利者であるひとびと(敵者)の文献の中に、否定的、批判的、時に嘲笑的に保存せられているにすぎない。
6:かくて彼らの哲学は、形而上学的には虚無論、認識論的には不可知論、実践哲学的には快楽主義に陥ることが多かった。
このような背景の中で誕生したため、「仏教はヒンドゥー教の改革派」と位置づけられましたが、一方、教団内ではカーストを否定し、平等な関係を樹立したことが特筆されているのです。
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仏教の開祖は誰?
仏教の開祖・釈尊の生年については現在もなおいくつかの説が立てられ、明確にされていませんが、おおよそ紀元前6世紀から5世紀頃といわれています。
生地は、今日のネパールのターライと呼ばれる地方の盆地で、そこに住む釈迦族の王族の長子として誕生しました。
父はスッドーダナ(浄飯)王、母はマーヤー(摩耶)夫人です。
有名な誕生伝説によると、母マーヤー夫人が出産のため実家に帰る途中、立ち寄ったルンビ二ー(藍毘尼)園の樹下で誕生し四方に七歩あるいて右手で天を、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝えられています。
生母が生後7日目に亡くなったため、釈尊は生母の妹マハーブラジャーパティー(摩訶波闍波提)に養育されました。
シッダールタ(悉達多)と命名されて、カピラヴァストゥ(迦毘羅城)の太子として何不自由なく成長しました。
父の邸の他に春夏・冬用にそれぞれ別邸があるという恵まれた生活ぶりだったと伝えられています。
16歳で、釈迦族の一門スブーティ(善覚)王の娘ヤショーダラー(耶輸陀羅)と結婚し、長子ラーフラ(羅睺羅)をもうけました。
ラーフラとは、「妨げる」という意味です。
当時、インドではバラモン階級が中心となり、人生を四住期に分けて生活していました。
すなわち、学生期・家住期(家長としての役割を果たす)・林住期(簡素な宗教生活の営み)・遊行期(宗教的な行脚生活)の4つです。
このような生活風土にあったため、もともと思索的であったとされる釈尊は、人生の意義について深く思い悩むようになり、29歳の時、城を出てすべてを放棄して出家しました。
これを「大いなる放棄」と呼んでいます。
そして、マガダ国に赴いて、当時の自由思想家アーラーダ・カーラーマとウドラカ・ラーマプトラの両師の下で修行生活に入りました。
その後、6年の断食などの身をさいなむ苦行を続けたあと、苦行でも悟りを得られぬことを自覚してこれを放棄し、ガヤー(伽耶)村のナイランジャナー(尼連禅河)のほとりにある菩提樹の下で端座し、ついに悟りを開いたのです。
釈尊35歳の時でした。
成道後、釈尊は40余年間、各地を遊行して伝道に明け暮れる生涯を送りました。
この問の釈迦の周には平穏なことばかりではなく、釈迦族の滅亡、ヤショーダラー妃の弟で弟子の提婆達多の反逆、二大弟子、舎利弗と目連の死など、心を痛めるような出来事も起きています。
しかし、入滅の直前まで法を説き続け、仏陀にふさわしい臨終を迎えました。
釈尊の遺体は荼毘(火葬)に付され、主に8つの部族に分骨されてストーパ(舎利塔)がつくられ崇拝されたと経典に伝えられています。
仏教の定める行事の月日は国によって異なりますが、我が国の仏教では4月8日を誕生、12月8日を成道、2月15日を涅槃の日として、行事を行なっています。
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