キリスト教の正典「新約聖書」は、開祖イエスの死後、その弟子たちによって書かれた様々な文書を、あとから一冊に編纂(へんさん)したものです。
ですので作者は単独の人間ではなく、書かれた時代すら一定していません。
そんな「新約聖書」の最後に配置されているのが「ヨハネの黙示録(ヨハネのもくしろく)」なのです。
通常、「黙示録」といえばこの文書を指すのですが、厳密には「黙示録」は、他にも複数存在します。
「黙示」とは、ギリシア語の「アポカリクス」の訳で、「覆いを外す」、「秘密を暴く」といった意味…
神が預言者に明かした秘密のことを、黙示と呼び、預言者が得た黙示を文字で記録したものが、「黙示文学」、または「黙示録」なのです。
こうした性格を持つ文書は、キリスト教発祥以前から、ユダヤ教徒によって書かれていました。
事実、「旧約聖書」の中にも、「ダニエル書」などの黙示文学が含まれています。
「ヨハネの黙示録」は、ユダヤ教からその伝統を受け継いだキリスト教が完成させた…
その最高峰といって良いでしょう。
その作者が誰なのか、正確なところは不明なのですが、一般的にはその呼称が示す通り、使徒ヨハネ(イエスに洗礼をほどこした洗礼者ヨハネとは別人)だといわれています。
イエスの直弟子にして、12使徒の一員だった彼には、預言者の資質があったらしいのです。
そんな彼が、神の啓示を受けて未来を幻視し、目撃した光景をつづったのが「ヨハネの黙示録」なのです。
とはいえ、その内容は難解をきわめます。
隠喩(いんゆ)、婉曲表現(えんきょくひょうげん)、象徴的言い回しが多用され、直接的な表現がほとんどないからです。
たとえば作者は、10本の角と7つの頭を持ち、角には冠を、頭には「神を汚す名」をつけた「獣」が、海からあがってきて人々を支配するさまを見た…
と述べています。
「獣」はすべての人々に自分の像を拝ませ、自分の名を示す刻印を押したそうです。
その支配の模様を描写したのち、作者はこう言うのです。
「思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である」と。
一事が万事、この調子だとりあえず、「獣」なるものが何かしら邪悪な存在であるらしいことはわかるのですが、具体的に何を指すのかは不明です。
後世のキリスト教徒は、同じ使徒ヨハネが書いた(とされる)「ヨハネの第一の手紙」の「反キリスト」を、「獣」と同一視し、かつてキリスト教徒を迫害していたローマ帝国こそがその正体だと解釈しました。
ローマ帝国の歴代皇帝の中でも、特に悪名高いネロを示している…
と説く者もいます。
しかし、これらの解釈が正解なら、もはや「ヨハネの黙示録」は役割を終えていることになるでしょう。
ローマ帝国はとっくに滅びているのですから…
見方を変えれば、このようにどうとでも解釈できる不明瞭なところが、この文書を魅力的なものにしているといえるかもしれません。
事実、「新約聖書」の中でもこの文書は、小説や映画のモチーフとされる頻度が、突出して高いのです。
20世紀ロシアの小説「蒼ざめた馬」、スウェーデン映画の古典「第七の封印」、ハリウッド製オカルト映画「オーメン」、イーストウッドの西部劇「ペイルライダー」など、例は枚挙にいとまがありません。
それは「ヨハネの黙示録」の提示する謎が、クリエイターたちの想像力を刺激し、創作意欲を掻き立ててやまないからこそなのでしょう。
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