イスラエルの首都エルサレム…
ここはキリスト教発祥の地とされ、西方10キロほどの地点には死海があります。
水の塩分濃度が非常に高く、浮力が大きいため、身体が沈まないことで有名な湖です。
その沿岸に暮らしていた遊牧民の少年が、偶然、洞窟に眠っていた多数の古文書を発見したのは、1947年のことでした。
それは、「旧約聖書」を中心とする、ユダヤ=キリスト教関連の写本群だったのです。
やがて付近の他の洞窟からも、同様の文書が続々と出土…
それらはまとめて、「死海文書」と名づけられました。
考古学的な調査で、これらは約200年間もの時間をかけて、蓄積されたものであることが判明…
その筆写時期は、紀元前2世紀半ば~1世紀半ばだと言われています。
このことは、死海文書が「聖書」の写本としては、現存する最古のものであることを意味しているのです。
しかもその中には、キリスト教誕生前後のユダヤ教徒、キリスト教徒の動向をうかがわせる記録も、含まれていました。
それだけに死海文書の詳細な解読は、世界の注目を集めたのです。
これまで知られていなかった史実を、明らかにする可能性が高いと期待されたからです。
しかし、その解読は遅々として進みませんでした。
とりわけ第四洞窟から出土した文書の公表は、遅れに遅れました。
このため世間では、現在のカトリックの教義を揺るがすような真実が隠されていたため、バチカンが圧力をかけて公表を控えさせているのだ…
といった陰謀論が、まことしやかに囁かれたのです。
しかし実際には、文書の保存状態が悪く、それを修復するまでに、気の遠くなるような細かい作業を要したことが、遅れの主な原因でした。
1990年代にようやく公開されたその内容は、学術的には貴重なものではあるものの、衝撃的な真相を含むものではなく、下世話な陰謀論者をがっかりさせました。
なお、死海文書を洞窟に保管したのは、かつてそこで共同生活を営んでいた、ユダヤ教徒の一派だと推測されています。
発見地にちなみ、「クムラン教団」と命名されたこの一派を、以前から認知されていた「エッセネ派」と同一視する声もあります。
エッセネ派は、ユダヤ教徒の中でもキリスト教に近い思想を有し、イエスの先触れたる洗礼者ヨハネも、この派の出身とされているのです。
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