「随処に主と作れば立処皆真なり」という言葉の意味をご存知でしょうか。
「随処に主と作れば立処皆真なり」の言葉は、臨済禅師が弟子たちに語ったとされます。
「随処に主と作る」とは、どこでも自分が主役やリーダーになれということではなく、常に真実の自己を見失うなということを意味しています。
あなたも思い当たるようなことはありませんか。
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随処(ずいしょ)に主と作(な)れば立処皆真(りっしょみなしん)なり
この言葉の意味するところは、「いつどこにあっても真実の自己を見失わず行動しなさい。そうすれば、どこであろうと真実のいのちと出会える」ということです。
もう少しかみくだくなら、「どこにいても周りに振りまわされることなく、自分の純粋な心を忘れずにものを見て、精一杯の真心で行動しなさい。そうすればどんな環境にいようと人生の真実や生の意味が発見できる」といったところでしょう。
しかし、この「随処に主と作る」のがじつは大変です…
どんな状況でも自分らしさを保つというのは容易ではなく、真実の自己(主人公)という土台がしっかりしていないと、外からちょっと圧力がかかっただけでどこかへ転がっていってしまいそうだから。
では、どんなときもブレない自分を保つにはどうすればいいか?…
最新のビルの免震装置は、地震がきてもユラーリユラリと揺れを吸収しながら中心軸がきちんと戻るようにできていますね。
あれの応月が有効…
どんなに現実に放り込まれても自然体でいられる心の免震装置、それはすなわち「無心」であるということなのです。
執着のない無心であればこそ「随処に主と作る」ことができそうですね。
また、趙州和尚は修行僧の「1日24時間、どのように心を用いたらよいのか」と云う問いに「(なんじ)は24時間に使われているようだが、この老僧は24時間を使いこなしておるぞ」と答えています。
人は皆同じ24時間を与えられているが、時間に追われ時間に使われている人の方多いのではないでしょうか。
現代においては、昼夜の隔てが薄く社会は24時間稼動して休みがなくなってきています。
そこに私たちも、ついついその社会の流れに巻き込まれ、主体性も無く、動かされ忙しい忙しいとあくせくさせられていることを反省させられます。
すっかりゆとりをなくし、時間を失ってきたようにも思えます。
なんだか知らない間に24時間に使われていることにあらためて気づき、「随処に主となる」この語が厳しい叱声となって迫ります。
随処に主となるとは、いつ如何なるところにあっても「ここが仏さまから私に与えられた処」として受け止め精一杯、力の限り生き抜くことでしょう。
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