平安時代(へいあんじだい)は、都に疫病や災害が起こり、人々は恐れおののきました。
この世に恨みを遺して死んだ人間の霊は、「怨霊」となり、病気や災害を起こすと考えられていたので、怨霊を鎮める御霊会という儀式が行われていました。
この御霊会(ごりょうえ)は何度も行われるようになりました。
869年には、京都の寺院·神泉苑(しんせんえん)に素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの祇園の神様を迎えた神輿三基と六六本の鉾(ほこ)を立てて、神に疫病を鎮めてもらおうとしました。
これが祇園祭のはじまりとされています。
室町時代になると、町衆と呼ばれた豊かな商工業者が自治組織を作り、それぞれの町ごとに山鉾(鉾を立てた山車)を作って街中をまわる現在の形が作られていきました。
祇園祭は7月1日にはじまり、一ヶ月続きます。
勇壮な山鉾が街を練り歩き、四条河原交差点での辻回し(90度の方向転換)は豪快です。
山鉾巡行の前日に行われる宵山(よいやま)では、出店が立ち並び、多くの観光客が訪れます。
タイミングを逃してしまうことを「後のまつり」といいますが、これは祇園祭から発祥した言葉だといわれています。
一ヶ月にわたって開かれる祇園祭の中で、豪華な山車がたくさん出る山鉾巡行は7月17日に行われますが、もとは17日と24日の2回行われていました。
17日の山鉾巡行を「前祭(さきのまつり)」といい、24日の山鉾巡行を「後祭(あとのまつり)」と呼んでいました。
前祭には、豪華に飾った鉾のついた山車が出ますが、後祭には鉾のついた山車は出ず、山と呼ばれる一般的な山車だけしか出ないので地味に感じられたといいます。
そのため、「後祭に行っても、祭りのいちばんの盛り上がりはもう過ぎている」ということから、タイミングを逃すことを「後のまつり」というようになりました。
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