「懺悔」とは神に自分の罪を告白する行為のことですが、特にキリスト教でのものをさす場合は「告解」といいます。
実はこれ仏教の用語なのです。
カトリック教会では、告解は7つの秘蹟(サクラメント)の一つに位置づけられています。
秘蹟とは、本来は兵士が忠誠を誓う儀式のことだったのですが、そこから転じて、神への信仰を示す行為を意味するようになりました。
7つの秘蹟の内容は、洗礼、堅信(聖香油の塗布)、聖体(ミサ)、罪の告解、終油(臨終のさいの聖香油の塗布)、叙階、婚姻となっています。
これらの儀礼のうち、洗礼や堅信、終油などは、通常は生涯に1度しか行なわれません。
しかし、告解は日常的な儀礼といえるのです。
カトリック教会での告解の制度は、1215年にローマで行なわれた第4ラテラノ公会議で、以下のように正式に定められました
まず、信徒は心の中での罪まで含めて、教会で聖職者に罪を告白する義務がある…
そして、告解した信徒に対する聖職者の答えは、そのまま神の声と同じ意味を持つ…
さらに罪となる行為の内容も細かく決められ、ちょっとしたキリスト教以前からのまじないや占いも、異端に結びつく罪だ…
とされのですた。
なにしろ心の中での罪まで告白しなければならないのだから、ある意味ではプライベートも何もあったものではありません。
しかし、どんな罪も、正直に告白して司祭の言葉に従えば赦されるのならば、大きな安息といえるでしょう。
建前上、教会は国家権力からも中立です。
このため、法律的な罪を犯した人間が教会で告解しても警察には通報しない場合も少なくありませんでした。
ただし、その判断は聖職者ごとに異なるので、すべてのケースがそうとは限りません。
また逆に、旧共産圏などの独裁国家では、聖職者が政権への協力を強制され、反体制的な人間が告解に来ると政府に密告する場合もあったといわれています。
しかし、敬虔なキリスト教徒にとって、告解という行為の本来の意義は、目の前にいる聖職者を通じての神との一対一の対話だったとのこと…
このため、歴史学者の中には、告解の制度をヨーロッパ文化圏における個人主義のルーツと解釈する人もいます。
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