平常心是道(へいじょうしんこれどう)とい言葉の意味をご存知でしょうか?
「平常心是道」という言葉は、唐代の名僧、趙州(じょうしゅう)が修行中に師の南泉普願(なんせんふがん)と交わした問答に由来します。
禅の本質を端的にあらわしたもので、もとは南泉の師の馬祖道一の言葉とも言われています。
それではさっそく「平常心是道」の言葉の意味を詳しくみていきましょう。
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名前:趙州 従諗(じょうしゅう じゅうしん)
生年月日:778年~897年
出身地:曹州臨淄県郝郷(中国山東省)
宗派:禅宗
著作:趙州真際禅師語録
名前:南泉 普願(なんせん ふがん)
生年月日:748年~835年
出身地:鄭州新鄭(中国河南省新鄭市)
宗派:禅宗
名前:馬祖 道一(ばそ どういつ)
生年月日:709年~788年
出身地:漢州(中国四川省)
宗派:洪州宗
著作:馬祖大寂禅師語録
あるとき、趙州が師の南泉和尚に「如何是道(いかがこれどう)」と尋ねました。
如何是道とは「道(どう)とはどんなものでしょうか?」という意味です。
すると南泉和尚はこう答えました。
「平常心是道(ふだんの心こそ道である)」と。
趙州は続けて問いました。
「そのふだんの心を、つかみ取る目標に据(す)えればいいでしょうか?」と。
南泉の答えは「目指そうとすると、すぐにそれてしまうぞ」というものでした。
趙州は、さらに「目指さないのなら、どうしてそれが道であると知ることができるのでしょうか?」と問うと、南泉は答えました。
「道は知るとか知らぬとかいう知識に属するものではない。真に疑いようのない道に達してみれば、それは虚空のようにからりとしたものだ。ああだこうだと説明しようもない。」
ここでいう「平常心」は、一般につかう「普段通りの心の状態」の意味ではなく、「日常の小さな行いもおろそかにしない心」を示しています。
普段の生活での心がけが、すなわち「仏の道」に他ならないと言っているのです。
私たちも、”ふだんの日”を怠惰に過ごして無駄にせず、まず当たり前のことを当たり前に行う心を大切にしたいものですね。
たとえば、誰に対しても真心で接することをあなたの「平常心」にしてみませんか?
今回はそんな平常心是道(へいじょうしんこれどう)の意味を知るお話でした。
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