ご存知のように日本には「以心伝心(いしんでんしん)」という言葉があります。
言葉に出さなくても、心が伝わるというすばらしい関係です。
しかし悲しいかな、そんなことは滅多に起こりません。
慈しみを持った人同士の間でごくまれに起こりますが、普通はないと考えた方がいいでしょう。
だからこそ、言葉にすることが大切なのです。
言葉で表現しなければ相手には伝わりませんし、伝わらなければ相手は勝手に妄想します。
相手の勝手な妄想に任せたりしたら、コミュニケーションは成立しません。
物事というのは相手の妄想に任せてはいけないのです。
そして意味をはっきりさせなければいけないのです。
その点を仏教では実に合理的で、科学的に回答してくれています。
「曖昧(あいまい)なまま相手の妄想に任せていい」などという考えは存在しません。
だいたい、「言葉にしなくてもわかって欲しい」と思うのは身勝手です。
相手に対して「こんなふうに理解して欲しい」と自分の願いを強要するようなものです。
それでいて、相手がわかってくれないと「どうしてわかってくれないの?」と落胆し、相手を責めたりする…
そんなわがままな話があるでしょうか。
ビジネスの現場でも度々その種の問題が発生します。
たとえば上司から部下に向かって、「そのくらい、いわなくてもわかるだろう」なんて言葉が発せられることがあります。
上司は「いわなくてもわかる」と勝手な妄想を膨らませ、部下は「いわれていないのだから、そんなことまで理解することはできない」と不満を漏らす…
合理的な仏教の立場からすれば、期待や妄想といった不確かなものをアテにしてはいけません。
実際のところ、「いわなくてもわかること」などありません。
だから、きちんと言葉にしていうべきなのです。
問題は「どんな言葉で、どんないい方をするか」です。
そのときは、もちろんあたたかい心のこもった言葉をかけなければなりません。
相手のことを思い、喜ばせようという意識を持って、きちんと相手に伝える…
それを怠っておいて「わかるはずだろう」、「理解してくれると思っていた」というのでは通りません。
この場合は、相手の妄想に任せた自分が100%悪いのです。
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