仏教における最高の存在で…
悟りを開いた者とされるのが仏陀(如来)です。
つまりは「仏様」ということですね。
さて、この「仏様」にも色々といらっしゃいます。
特に「如来」・「菩薩」・「明王」・「天部衆」などが有名かと思います。
では、この如来・菩薩・明王・天部衆の違いや仏としての地位とは、一体どのように解釈されているのでしょうか?
今回はそんなお話です。
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如来・菩薩・明王・天部衆の違いと仏としての地位
そもそも仏教には当初、超越的な存在である「神」のような概念は存在しませんでした。
それは、仏教は本来、修行によって悟りを開くための理論体系だったからです。
しかし、現代では、お寺などに行けば、阿弥陀如来(あみだにょらい)や観音菩薩(かんのんぼさつ)、不動明王 (ふどうみょうおう)などの像が飾られ、ありがたいご利益のある存在として人々の信仰を集めています。
これらは、後世に生みだされた仏教における一種の「神」のようなものなのです。
難解な理論だけでは、人々の心を惹きつけることはできません。
そこで、具体的な信仰の対象として、さまざまな如来や菩薩、明王などが誕生したのです。
ところで、如来や菩薩、明王は、みな「仏さま」としてあがめられていますが、本当はそれぞれに明確な違いがあります。
如来とは、すでに悟りを開いた者のことです。
先述した阿弥陀如来の他、釈迦如来(ブッダ)や大日如来などがいます。
厳密に言えば、そもそも仏とは悟りを開いた者のことなので、本当に仏と呼べるはこの如来たちだけなのです。
菩薩とは、悟りを目指す修業の途中にありながら、人々を救済しようとしている者のことです。
観音菩薩のほかにも、地蔵菩薩や弥勒菩薩などがいます。
明王とは、仏の教えに従わない者を戒めるために、如来が化身した姿のこと。
そのため、明王像の多くは、武器を手にし、怒りの表情を浮かべています。
例えば不動明王は大日如来の化身とされています。
この他に天部衆(てんぶしゅう)と呼ばれる存在もいます。
帝釈天(たいしゃくてん)や吉祥天(きっしょうてん)など、名前に天がつく一群のことです。
天部衆の大半は、もともとヒンドゥー教の神々であり、それが仏教にとり入れられ、仏教の守護者としてあがめられるようになりました。
たとえば、帝釈天の前身は雷神インドラ、吉祥天の前身は女神ラクシュミーとなります。
つまり仏としての地位は、如来、菩薩、明王、天部衆の順なのです。
ちなみに仏教の台座には、蓮華をモチーフにしているものが多いかと思います。
観音菩薩(かんのんぼさつ)など、蓮の花を手にした仏像も多くあります。
また、仏壇には、たいてい蓮の花の模様が彫られているもの…
水生植物である蓮は、汚れた泥水に根をおろしているのに、水上にとてもきれいな花を咲かせます。
その在り方に、俗世から清浄な悟りの世界に達したブッダの教えのイメージと重ねて、仏教では蓮を悟りや極楽浄土の象徴とみなしているのです。
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