大乗仏教の宗派の一つ…
天台宗(天台法華宗や法華円宗とも呼ばれる)についてご紹介しましょう。
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天台宗とは何?…祖・最澄と天台宗のこれまで
天台宗は平安時代、真言宗と共に日本仏教の中核となった宗派です。
宗祖・伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちよう)上人が近江国(現·滋賀県)に建立した比叡山延暦寺で鎌倉仏教の祖師たちが学んでいることから、日本仏教の母山と称されています。
最澄は神護景雲元(767)年、比叡山山麓で帰化人の末裔として生まれました。
11歳で出家し、延暦四(785)年、東大寺の戒壇(正式な戒を受ける場所)で受戒して僧の資格を得ました。
その直後、当時の仏教界の堕落を見て修行の場を比叡山に求めて入山、延暦七(788)年に一乗止観院(のちの根本中堂)を建立して求道一筋の生活に励みました。
この修行生活の決意を示す「五箇条の誓い (願文)」には、「浄戒を身具するまでは布施を受ける法要に出ない」、「空智を得るまでは世間との関係を絶つ」、「功徳は己に受けず」との真摯な姿勢が充溢しています。
延暦十六(797)年、最澄は十禅師(宮中内道場に供奉する十人の高僧)の一員となり、翌十七(798)年より毎年、一乗止観院にて法華経講会を開講します。
延暦二十一(802)年には山城高雄山寺(現·高雄山神護寺)で法華経を説き、高い評価を受けました。
延暦二十三(804)年、還学僧(朝廷から与えられた高僧としての身分。この時同行した空海は私費留学僧)として遣唐使船で入唐を果たし、天台山において智顗(天台大師)が開宗した中国天台宗の法統を受け、さらに密教、禅をも学んで1年後に帰国しました。
帰国後、桓武天皇の信任を受け、延暦二十五(806)年、天台宗の創立が公認されましたが、天皇崩御ののち、南都諸宗との間で戒壇建立問題や教義上の激しい論争を展開する一方で、一時法縁を深めた空海との訣別などもあって、弘仁十三(822)年、最澄は日本天台宗の基礎を築き56歳で入寂しました。
最澄入寂7日目に、最澄の念願であった比叡山の大乗戒壇設立の勅許がおりました。
そして遺言にある「我が為に仏を作る勿れ。我が為に経を写す勿れ。我が志を述べよ」(伝述一心戒)いう使命感(志)が、比叡山を日本仏教の母山形成へと導きました。
その後、第四代天台座主・円仁(慈覚大師)と五代・円珍(智証大師)の二人の高僧によって「天台密教(台密)」の確立を見ましたが、この両者の弟子の対立によって分派を生ずることになりました。
次いで中興の祖 良源(十八代天台座主。慈恵大師)と織田信長の比叡山焼討のあとを再興させた天海大僧正などの法燈継承によって今日に至っています。
伝教大師最澄の教えの核心は、万人成仏の道を示したことにあります。
本尊/法華経如来寿量品に説かれた久遠本仏とその働きを示す諸仏…
経典、「法華経」、「阿弥陀経」などです。
主要宗派…天台宗、和宗、聖観音宗、天台寺門宗、天台真盛宗、寺院数は約4000寺で信徒数は約200万人とされています。
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