数あるプロテスタント諸派の中でも、やや特異な地位を占めるのが「英国国教会」です。
成立したのは16世紀前半…
まさにルターやカルヴァンによる宗教改革の真っ只中でした。
しかし同時期に生まれた他の諸派とは、発足までのいきさつがまるで異なるのです。
一言でいえば、当時のイギリス国王、ヘンリー8世のわがままが発端でした。
彼はもともとは熱心なカトリック教徒で、ルターの宗教改革に反対の立場を表明していました。
高まるカトリック批判に危機感を募らせていたローマ教皇は、彼を「信仰の擁護者」と呼んで頼りにしていたくらいなのです。
そんなヘンリー8世が態度を豹変させたのは、ひとえに、親の言いなりで結婚させられた年長の妻、キャサリン・オブ・アラゴンと離婚し、若い愛人アン・ブーリンと再婚したい一心からだった…
カトリックでは基本的に離婚はタブーです。
彼はなんとかローマ教皇の離婚許可を得ようと画策しましたが、うまくいかず、ついに離婚をみとめる新宗派を自分で立ちあげてしまったのです。
のちにヘンリー8世は、再婚相手のアンにも飽きてしまい、彼女に姦通罪という濡れ衣を着せて処刑…
別の女性と再婚することになります。
さらにその後も同様のことを繰り返し、世間を呆れさせたのですが、それはまた別の話。
成立の事情が事情だけに、英国国教会の教義は当初、結婚や離婚に関する部分をのぞけば、カトリックとほとんど変わりませんでした。
しかし現在では、カトリックと他のプロテスタントとの中間的な性格を帯びています。
それは、ヘンリー8世の死後、二人の君主を間に挟んで女王の座についたエリザベス1世(ヘンリー8世と二番目の妻、アンとの間に生まれた娘)が、英国国教会の組織、教義、儀式を整備しなおして、カトリック色を薄め、プロテスタント色を強めたからです。
エリザベス1世は、国内におけるカトリックとプロテスタントの対立解消をはかって、どちらに肩入れすることもない、中道路線をとりました。
ただし、英国国教会の指導者たる「首長」の座を、イギリス君主が占める点は発足時から変わっておらず、それがこの宗派の最大の特徴になっています。
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